杉本博司 シャッター、フレーム、虚像

人間の眼を写真機という機械になぞらえてみると、
水晶体がレンズ、網膜がフィルム、瞳が絞りということになる。
ではシャッターは眼の何にあたるのだろう。



原稿の締め切りになんとか間に合ったので、
じぶんへのご褒美もかねて
『白鯨』を読むという読書プランからいったん離れ
(ずっと離れっぱなしだけど)
ここ数日、杉本博司の『苔のむすまで』を読んだりしていた。



『苔のむすまで』を手に取ったのは、
先日読んだ斎藤環の『アーティストは境界線上で踊る』のインタビューでの
杉本さんの発言が気に掛かったからなのだけど、
ちょうど金沢21世紀美術館での展覧会もはじまり
それにタイミングを合わせて『ブルータス』で
過去の特集に追加取材した杉本博司特別号が出たりと、
なんとなくタイムリーになってしまった。


杉本さんは意外にも、手慣れた文体をもっていて、
じぶんの作品を枕にして、つらつらと3000字程度の
長めの文章がつづく。


作品のなかでとりわけ惹かれていた「theater」シリーズも
エッセイに取り上げられていた。
映画館でスクリーンを見つめる行為が
杉本さんにとって重要なモチーフであることがわかる。
とはいえ
テレビのなかった子供時代、
映画館に行くのが特別な体験だったというような思い出話には落ちずに
映画を見ることは、原初の宗教儀式と似ている、と杉本さんは指摘する。
そのイメージの射程はひろくてふかい。
「theater」のあの静謐な佇まいは、
現代の祭壇に向き合う宗教的な厳粛さを写し取ろうとしたものなのだ。


古代、という未知なる時間帯への憧憬が
杉本さんになかにはあるみたいだ。
かつて、たとえば国家の黎明期、あるいは文明のあけぼのに
人間たちのメンタリティはどんなものだったのか。
世界をどんな眼でみていたのか。
彼らはどれほど神と親しかったのか。


正直なところ、杉本さんの文章からは
「なにを見ても、古代をおもう」というような恣意性が強くて
にわかファンのぼくがそのオブセッションにすなおに同調するのは難しいのだけど、ひとつ得心したこととして
彼が写真表現を試みる理由には
歴史の知識や想像力だけでは古代に接近しきれないという
諦めがどこかにあって
だから写真という詐術でもって、
古代をありありと現前のものとしたいという強い動機があるような気がした。(たとえそれがフィクションであったとしても)。


はなしはふたたび「theater」に。
あの作品群の光源は、映画のフィルムを通してスクリーンに映る光のみだ。
つまりもし映画の上映時間が2時間なら、2時間分の発光を、
1回のシャッターにおさめていることになる。
映画のフィルムから、写真のフィルムへ、光がやりとりされる。
写真のフィルムには劇場を満たした2時間分の光と空間が切り取られる。その変換には、カメラがもつシャッターという機能が大きく関わる。


シャッターはカメラにとって重要な装置である。
刻々と変化していく現実、とらえどころなく流れていく時間、
に対して毅然とした態度で時間に線を引き、
見るものを決定する。
漠然と存在していた実像としての現実は、
この事によってはっきりとした方向性と意味を与えられた虚像として
フィルムに定着される。



ところで「theater」には劇場があるばかりで
人の姿はないのだけれど、
では「theater」を見ているのは、誰なのか。
劇場にいるはずに観客という「見る主体」が消されることで、
視線の問題がかえってクリアーに浮かび上がる。

シャッターを持たない人間の眼は必然的に長時間露光となる。
母体から生まれ落ちて、
はじめて眼を開いた時に露光は始まり、
臨終の床で眼を閉じるまでが、人間の眼の1回の露光時間である。
網膜上に倒立しながら一生を通じて映し出される虚ろな像をたよりに、
人間は世界と自分との距離を測り続けるのだろう。


杉本さんはエッセイにこうオチをつけるのだけど
ぼくとしては、もう少し解釈をねじりながらこのテーマをかんがえてみたい。


おなじ時期に読んでいた東浩紀の本に、映画を観ることについて触れられている文章があったので、引いてみたい。(つづく)