映画を観ることと哲学することはどのように似ているか

東浩紀の『文学環境論journal』を読んだのは、
早稲田文学新人賞」の審査員を東浩紀がやる、しかも一人でやる、
というニュースを聞いて、
さらにフリーマガジン『WB』のインタビューでは
「オレの考える文学は、いまぜったい勝てる自信がある!」
みたいなことを東さんが言っているのを読んで
「どんな文学観のひとだったっけ」と
興味をもったから。



東浩紀×文学といえば、
『新潮』誌上での、東浩紀高橋源一郎田中和生とのあいだで行われた鼎談が記憶にあたらしい。
あの記事の、ぼくにとっての最大の読みどころは、
東さんの話術だった。
鼎談のきっかけになった
「小説のことは小説家にしかわからない(評論家いらないかも)」
という問題提起はあまりにありふれていて*1、そのうえ、このフレームのなかに許容される言論の幅がひろいものだから
レトリック次第でどうとでも話をころがせるところがある。
話はまさにディベート的な展開に。
東浩紀は、相手の主張を、じぶんの話の都合に沿うように変換する技術におそろしく長けている。天才的、とおもった。
「要するに田中さんが言いたいのはこういうことでしょ」
というコトバにつづいてなされる要約は
田中和生の話をコンパクトに圧縮するのはもちろん(つまり正しく「要約」でありながら)、相手の主張を狭量で愚かに見せるエフェクトが巧みにかかっているから
あの鼎談を通して読むと、田中和生がコマッタチャンにしか見えない。
その印象はほとんどすべて東浩紀の言い換え術によっている。
はたして田中さんはほんとは何を主張したかったのか……などという検証をする気をなくさせるほど、完膚無きにまでピエロにされる田中さん。



だから田中さんのことはもうどうでもよくて
ついでに、東さんの文学観というのも
とくにここでまとめたいとはおもわない*2

時評系の短文、中文が掻き集められた『文学環境論journal』を読んで強烈に印象にのこるのは
ここでもやはり東浩紀の変換能力の高さなのだ。
「新潮」の鼎談で見せた東さんの刃が現代思想に向いたときにも、
同種のスキルが発揮されるんだということ。
エピステーメーとか対象aとか現象界とかの現代思想ジャーゴン
東浩紀の話のなかにおそろしいわかりやすさで吸収される。


白眉は、ネットで配信されていた「波状言論」連載の「crypto-survival noteZ」。
その後半の展開がすごく面白かった。


東さんの連載は、たいていエンジンがかかる前に
論旨が迷走したり、長すぎる前置きだけになったり、
その言い訳をしたり、
とかなんとかやっているうちに連載自体が打ち切りになったりしているようなのだけど、
自身が主宰した「波状言論」内の「crypto-survival noteZ」では、
各回の話が連結しながら太いうねりとなって
しだいに結論部にむかっていくときの高揚感がある。


ラカンの考えでは、
人間は想像的同一化(ベタ)と象徴的同一化(メタ)に切り裂かれた
二重性で特徴づけられる。
(中略)
想像的同一化と象徴的同一化に切り裂かれた人間、というこのイメージは、
何よりもまず、近代社会に生きる人々が自己理解のために必要とした
「歴史的生産物」として捉えなければならないのだ。
そのように理解すれば、ラカン精神分析の理論は
ほかの思想家の直観とまったく矛盾しない。


近代における人間がつねに二重性を抱えていること、
フーコーはそれを「経験的=超越論的二重性」と呼び、
ギデンズは「再帰性」と呼んだ。


このへんの要約。接続されっぷり。


上の二重性のはなしは、「映画を観る行為」を喩えとして持ち出すことで、
ぐっと理解しやすくなる。
ということで、先回の日記からのつづきで、
映画とフレームについて、東さんが触れているところを
長くなるけど引用する。


僕の理解では、近代的な主体が映画の隠喩で説明されるのは、
そもそも映画を観るという行為が、画面のなかに同一化しつつ、
その外側もつねに意識するという二重の経験を強いるものだからである。


私たちは、スクリーンの内部と外部、
コンテンツとフレーム、
虚構と現実、
オブジェクトレベルとメタレベルをつねに同時に意識しながら、
しかし矛盾を感じずに〈ひとつの〉映画を楽しんでいる。
そして、その二つのレベルを縫合するのが、
スクリーンの彼方に存在し、コンテンツとフレームを同時に決定している「カメラ」「視線」、すなわち作者=他者の存在である。
オブジェクトレベルとメタレベルは、作者=他者という「崇高な対象」をフックとし結合する。

「崇高な対象」はスラヴォイ・ジジェクの用語。
これも簡潔に説明される。


映画における演出家や監督に相当するその存在を、
ラカンの孫弟子にあたるスラヴォイ・ジジェクは「イデオロギーの崇高な対象」と呼んだ。
(中略)
 ジジェクの考えによれば、イデオロギーとは、
人々に信じこまれている単なる「虚偽意識」ではない。
そうであれば、スターリニズムでもチュチェ思想でもグローバリズムでも、
間違いを指摘すればすぐに消え去るはずである。
そうではなく、イデオロギーが厄介なのは、それがすでに自己批判を含みこんでいるからなのだ。


裏返せば、そのようなイデオロギーの「二重性」は、
同じく二重的な主体である近代人のツッコミ能力を
適当に飼い慣らす役割を果たしてきたと言える。
ベタとメタに引き裂かれた近代人は、
放っておけば、あらゆる価値観を疑い、解体しかねない(「神は死んだ」というやつだ)。
しかし、その近代人もイデオロギーを乗り越えることはできない。
なぜならば、イデオロギーとは、
まさに、そのように疑われ、解体され、ネタにされることで生き残り、
コミュニケーションを安定化する装置だからである。
ポストモダン論で言う「大きな物語」とは、この安定化装置のことを指している。

近代とは
「映画を観ることと哲学することが似ていると思われるような時代」であり、
ポストモダンとは
「コンピュータを触ることと哲学することが似ていると思われるような時代」だと東さんは言いたい。
つまり、ポストモダン社会を説明するのには、
「映画」よりも「コンピュータ」がベターでしょ、ということなのだけど、
「crypto-survival noteZ」を読むかぎりでは、
なぜコンピュータの喩でポストモダン社会が説明できるかは、まだ直感レベルのはなしで、
説明がこなれていない気がする。
逆に、近代までは有効だった、「映画を観る行為と哲学すること」の関連を説明する手際は、洗練されているし、とりあえずぼくは、その部分に感化された。
ここで展開された映画のモデルは、小説を語るときにも適用できるのだろうか?
あるいは東浩紀が求めているのは、コンピュータ的な喩が可能な小説ということなのかもしれないけれど。

*1:批評家の仕事は、いま新しく生まれてくる小説の形を、過去の小説群との連続体して語るためのパースペクティブを創造することだ。とおもう。
その視座を提出できないなら、そういう評論家はいらない。
村上龍のデビューがきっかけだろうけど、江藤淳が文学のサブカルチャー化に逆ギレして文芸時評をやめちゃった段落で、ちゃんと時評をやる文芸評論家がいなくなってしまったでしょう。目の前に次々出て来る小説を歴史の軸に接ぎ木していくのが時評なのに、それを義務として引き受けようとする人っていないんじゃない」とは、東浩紀との共著『リアルのゆくえ』のなかで、大塚英志が言っていたこと。

*2:たとえば雑誌『ファウスト』について、こんなことは言っている。「ライトノベルライトノベルの方法論のなかに安住し、安定した評価を得られる世界を作るためならば、別に小説誌を創刊する必要はなかっただろう。私たちにいま必要なのは、よくできたライトノベルやよくできたミステリではなく、まんが・アニメ的リアリズムを用いてしか描けない現実を極限まで追究し、その反照として私たち自身の歪さに切り込んでくる、そのような過剰さに満ちた作品だ」。ひねた見方をするようだけど、ライトノベルとかまんが・アニメ的リアリズムということは措いて、東さんはある定まったルールがある世界のなかで、そのルールを遵守するかに見えて、最後に根本的であざやかなちゃぶ台返しをする――という物語が好きなのだろう。『文学環境論journal』におさめられた『批評空間』についての文章は、同型の物語をなぞりながら、この本のなかでもっともこころふるえた部分だ。
「『批評空間』は、『季刊思潮』のころから終刊まで一貫して、
「批評史」に記されること、「遠い他者」に判断されることに怯え続けた雑誌だった。
そしてその「遠い他者」の像は、ある時点であまりに抽象化され、結局、
その穴は編集委員たちの鏡像で埋められるほかなくなったように思われる。
柄谷氏と浅田氏がいま恐れているのは、正確には他者ですらない。
彼らはいまや、具体的な「遠い他者」(近くにいる遠い他者)が
どこにいてなにを考えているのか、その方向感覚を決定的に失ったまま、
ただ自分の似姿に自分が判断されることだけを怯えている。
それゆえ彼らは終刊号の共同討議でも、結局は自分たちの美学を主張しあうほかないのだ。
『批評空間』の長い歩みがそのような不毛な会話で締めくくられたことを、僕は率直に残念に思う。
だから僕は、柄谷氏と浅田氏をそのような袋小路に追い込んだ物語、
あの一九九〇年の批評史的な整理をいっさい信じない。
僕が先行世代を「終わらせる」ことにもはや関心を抱かないのも、
『批評空間』から離れて思考を展開したいと望んでいるのも、以上のような理由からである。
浅田氏はさまざまな言論人を否定し、終わらせる(あるいは終わらせたと主張する)ことで
批評活動を展開してきた。しかし僕は浅田氏を否定しない。
また彼を終わらせようとも思わない。それは彼に敬意があるからでも、敵意があるからでもない。
僕はただ単純に、彼が陥った罠に陥りたくないだけである」