『白鯨』を読む05 スティル・ライフ

というわけで、ツマのすすめで『きいろいゾウ』も読んでいる。


ツマについて、少し書いておこう。


彼女はこれまでの人生で、本とはほとんど無縁に生きてきた人で
あるときは
「ノンフィクションが好き」
と言いのけたりするのだけれど
ぼくは怖くて
「じゃあ、どんなノンフィクションの作品を読んできたの?
 オススメのノンフィクションライターは??」
などとは聞けない。


またあるときは
「活字のなかの体験よりも、
 じぶんの目や足でほんとうの体験をする方がいい。
 たとえば山に登るとかして」
とツマは言ったりもする。


「たしかに、そうだよね」
とぼくはこたえる。
でもそのときに
「たとえば、星を見るとかして」
と、こころのなかでリフレインが聞こえる。

きみは自分のそばに
世界という立派な木があることを知っている。
それを喜んでいる。
世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。
でも、外に立つ世界とは別に、
きみの中にも、一つの世界がある。


きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる。
きみの意識は二つの世界の境界の上にいる。


大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、
セミ時雨などからなる外の世界と、
きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、
一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。
たとえば、星を見るとかして。


ぼくとツマがしゃべるコトバのはしばしには
不可知なものとしての本が
まるで目に入ったゴミみたいに
ちらちらと顔を出すことがある。


本が気にならなくなるとき、ぼくたちの関係はスムーズで
本がその存在感をつよくすると、ぎくしゃくする。


ぼくは基本的に、人に本をすすめることはしない。
ぼくじしん、だれかに手渡された本を
きちんと読めたことなんてほとんどないし、
本との出会いは、あらゆる種類の押しつけとは無縁であるべきだとおもうから。


でもあるとき、(それはツマなりの譲歩であったのかもしれないのだけど)
「なにか小説を読んでみたい。どれがいい?」
と訊かれたことがあった。



そのときツマに手渡したのは
カズオ・イシグロの『日の名残り』だった。
どれにしようかと悩むことはなかった。

コトバたちが森の奥から集合して、炎をかこんでゆるやかなダンスをつづけ、
ぼくにそっと近づいては、耳元でこころときめく秘密をささやく。
ささやきは次々とぼくの耳をくすぐる。
そしてぼくは、じぶんの足がいつのまにかステップを踏んでいることに気づく。
――『日の名残り』を読むことは、そういう体験をすることに似ている。



ツマは『日の名残り』を読んでくれた。
「よくわからなかった」
と、ツマは口にしなかった。おくゆかしくも。


「じつは『日の名残り』は、よくわからなかった」
という告白をツマから聞いたのは
ずっとあと、彼女が『きいろいゾウ』を読み終えたときだった。