『白鯨』を読む06 最後の物たちの国で

名前は忘れたが、犬を連れた男性に会う。


西加奈子の『きいろいゾウ』を読みすすめている。


おもしろい、だけでなく
思っていたより油断ならない小説で
(その油断ならなさこそが「おもしろい」わけだけれど)
たとえば文庫本の105頁にある
上のような一文に、どきり、としてしまう。


この小説は、
妻の書く日記と、夫の書く日記とで、交互に構成されている。


あるシークエンスでは、
メガデス
という印象的な名前の犬との出会いについて、ツマが日記に書くのだけど
ムコさんはその直後の日記で
さらりと
「名前は忘れたが」
と書く。


ふたりの視点の違いが、よみどころで
「夫婦でおなじ一日をすごしていても、考えてることはちがうんだねぇ」
と、しみじみ思いながら
結果的に、小説に書かれる田舎の暮らしが
立体的に浮かびあがってくる。
のだけれど
二種の日記が連なる構成には、もっと大きな仕掛けがあるのではないかと
疑いながら読んでしまう。
もしかして……ふたりが交互に書いているのではなくて……。


こういうとき、ぼくの想像する可能性は
すぐに怖いほうにただよっていってしまう。ぼのぼのみたいに。押井守みたいに。
もしかして……ふたりが住んでいるという平和な村すらも……。
ああ、こわい。


でもぼくが考えるような、こわい種明かしは、
頁をめくっていっても現れなくて
ぼくは胸をなでおろしながらも
「と、思わせてとんでもないどんでん返しがっ」
とおののきつつ、読みすすめている。
このあと、小説がどんなふうに着地するのかは、まだ見えない。
なにか秘密を隠しているのかもしれないし
ストンと素直におわるのかもしれない。


こんなふうに、
「書かれていないけれど、そこにあるかもしれないこと」の存在が
ひしひしと迫ってくるような小説は、すきだ。


たくらみを隠すといえば、聞こえは悪いけれど、
カメラでいえば、フレームの外にも何かがある気配。
コトバで切り取られた世界の限定性に、自覚的であること。


もちろん、まったく逆に
コトバの伽藍が、世界の肌理も、思念も、十全に描き出すことができるんだ、
という意識でいる小説家は、たくさんいるし
(もしかすると、これから読む『白鯨』も、その種の小説かもしれない)
実際、コトバが何かを語り尽くせるかもしれないという想定には、
ぼくも魅了される。
だけど、
コトバは世界それ自体の豊かさには及ばない
という前提から出発して
「それでも、何かは書くことはできる」
という希望に向かって進んでいく小説は、
結果的に「すべてを書き尽くす」小説よりも、もっと大きなものを捉えうる可能性を
もっている気がしてならない。



ぼくのツマが『きいろいゾウ』に惹かれたのは
ぼくが惹かれた上の理由とは、ぜんぜん違う理由だろう。


ここで書かれていることは、私たちに似ている。


と、ツマは思ったのだろう。

もっと正確にいえば、
すこし未来のじぶんたちの姿に、重ね合わせているんだとおもう。
ある種の希望とともに。



ぼくたちはいま、東京に住んでいて、
来年、西のほうに行くことになっている。


アテがあるわけではない。
ただある時点で、ともかく西に出発することだけは決めていて
だからぼくはいま、転職先をさがしていて
でも見つからなくて
困ったな
とおもいながら、なんとなく小説を書き始めている。


そこでどうして小説を書くことになるのかを
カンタンに説明するのは難しいのだけど
(だからとりあえず何も説明しないで話をすすめるけれど)
ツマが、ぼくに小説家になってほしい、と期待しているのはわかる。


山のなかで、ツマはツマの仕事をし(それは山のなかでしやすい仕事なのだ)
ぼくは薪を割ったり、食事をつくったりして彼女の仕事を手伝いながら
文章を書いて暮らせたらいいのに、と。
それがツマの夢想だし
ぼくもそれは悪くないぞとおもっているものの
現実的な目標とは、とてもおもえないでいる。



最近は、朝、ツマと台所で
抹茶を飲む機会が多い。


抹茶をすするまえに、お菓子をたべるのだけど
ツマにおしえてもらったいろいろの和菓子のなかで
たねやの栗大福は別格だ。


米の形をつぶしすぎてない白い表皮も、甘すぎない粒あん
姿も味も、抹茶との相性も。
もうなにもかも。
惚れ惚れしてしまう。


西をむいた台所の窓には朝から日がさしていて、まだ寝間着すがたの
ツマを照らす。
ぼくの歯形をかすかに残した栗大福の断面をみつめる。
それから、もう一口。
口のなかで、小豆がゆっくりほどけていく。
ぼくの舌と大福が親密な交感のなかにいるあいだに
ツマがお茶を点ててくれる。
さしだされる信楽の茶碗の奥に、
濃いグリーンがつつましくたゆたっている。


ここには、じぶん史上、至高の日々があると
ぼくはいつもおもう。
きいろいゾウ』の夫婦が、寄り添って幸せのなかにいるコトバを読みながら
つぎの頁をめくるのが怖いのとおなじように
ぼくは次の朝をむかえるのが、すこしこわくなっている。


一瞬、目を閉じたり、うしろを向いて別の物を見ただけで、
たったいま目の前にあった物がもうなくなっているのです。
何ものも続きはしません。
そう、心のなかの思いさえも。
それを探して時間を無駄にしてはいけません。いったんなくなった物は、
もうそれでおしまいなのです。

ともかく、ぼくたちは東京を離れるし、
書き始めた小説を、とりあえず書き終えてみよう。
(それから、『白鯨』も読むし。もちろん)