『白鯨』を読む07 長距離走者たちの孤独

きいろいゾウ』を読み終わる。
ジュディ・パドリッツの『空中スキップ』も。
あと、シャロン・モアレムの『迷惑な進化』も、
それから、ディトリックの『石ころの話』もさいごの頁まで到達した。


すこし前におなじタイミングで読み始めた本が
足並みをそろえてゴールインしたという感じ。
遅れてスタートした『きいろいゾウ』の追い上げがすごかった。
そして、『白鯨』は、スタート地点からまだ一歩をすすんでいない。
地面にすわりこんで、芝生をむしったりしている。



読み終えた本の感想を少しずつ。
(ネタバレしてます)


きいろいゾウ』は、強い結びつきをかんじている夫婦が
ばらばらになるあたりから、ストーリーが緊迫感を増してくるのだけど
コトバそれ自体の膂力も、後半は飛躍的につよくなっていく。


物語の中盤で、ムコさんが本のしおりに見つける短い文章が
そのごの展開のなかで繰り返されるうちに、
ぼくの気持ちのなかでどんどん膨らんでいく。

わたしは眠ります。
それがそこにあることを、知っているから。
わたしは安心して眠ります。
それがそこにあることを、知っていたから


コトバが、物語の力を借りて、成長しているという感覚。
庭の草木がツマに呼びかけるシーンもいい。
アレチさんの戦時中の記憶がツマによって扉を開けられ、イメージが
噴き出してくるシーンも
コトバが荒々しく炸裂している。
もしかしたら大げさな表現になるかもしれないけれど
なにかコトバのもつ禍々しい力が、
きいろいゾウ』の後半には、ときどき顔をのぞかせるようになっている気がする。


こんなふうに中盤までの、「ふわふわした日常」というテイストを脱ぎ捨てることが
あるいみ爽快、といえば爽快なんだけど
中盤のクライマックスとなる漫才発表会のシークエンスまでの
抑制の利いた、複雑な話の回し方のまま、穏やかにフィニッシュしていたら、
どうなっただろうという夢想もしてしまう。
どこまで頁をめくっていっても
さしたる変化のない家族アルバムのような穏やかな起伏。
ツマとムコさんは、離ればなれにならないで
物語のさいごまで、仲むつまじくすごしたとしたら。たとえば
リディア・デイヴィスの短編「サン・マルタン」の、
けっして離れないカップルの物語みたいに。



後半のストーリーについていえば
悲壮感を増していくのは、抵抗ないのだけど
「そこでアレチさんがなぜ?」という疑問は、なくもなくて。


ツマとムコさんの、ふたりの物語として盛り上がっているところに
おとなりさんのアレチさんが混じらなくてもよかった気がする。
しかも過去のアレチさん。
戦時中のアレチさんの記憶が、ツマによって召還される。
一方のムコさんは、
おなじころ、いわゆる「前カノ」に会いにいくことで
近過去のじぶんに直面しているわけで
ふたりして過去への哀しい旅を繰り広げるという展開に、
小説世界にずんずん引き込まれながらも、必然性がよくみえなかった。


キャラクターのバックストーリーを
(たとえそれが魅力的なストーリーであっても)
いまここで進行中の物語のなかに組み込むのは、
じつは小説の技術としては、かなり難しいことで、
村上春樹が、いつもけっこうやすやすとやりとげてしまうので
これまであまり気にしてこなかった問題だけど
あらためて考えると、あまり成功例が思い浮かばない。


悲惨な失敗例として出すのは気がひけるけれど
さいきん悪い意味で印象にのこったのが
伊井直行の『青猫家族輾転録』。
あの小説での長い回想は、なくても成立するし、
むしろない方が完成度が上がるバックストーリーだった。
寓話的すぎで、それまでのはなしのリアリティの度合いを混乱させていた。
でも伊井がいちばん書きたかったのはそのバックストーリー
(と、冒頭に表明される、じぶんの文体に関する逡巡)なんだろうなという気はして
ようするに、マッチングの問題じゃないかという気もするのだけど。


逆に、これはうまいぜと思い出す例は
ジョン・D・マクドナルドの『ケープ・フィアー』。
主役夫婦の若かりし頃のなれそめが描かれるのだれど
夫婦の過去をジョン・Dがしつこくねちっこく描けばかくほど、
その後につづく復讐の物語がいよいよ怖くなる。


たぶん、小説は、
過去へ過去へと向かっていく意志を内在している表現なのだろうとおもう。
基本的に語り部は、
すでにおこった過去についてしか書くことができない。
書き手は、複数の過去をレイヤー的に重ねることで
小説内の世界を豊かにできると期待する。
それがどういうときにうまくいって、
どういうときに失敗するのか紐解くには
ぼくがおぼえているサンプルは少なすぎるし、ぼくの頭もシンプルすぎる。


でもって、『きいろいゾウ』でのアレチさんの過去のあつかいが
失敗しているか成功しているかは
とりあえずいまは判断できないし、したくもない。
西加奈子という優れた小説家に出会えたしあわせを
いまはただ、しみじみ感じていたい。
ぼくは素朴な読者以上のものに、なりたくないみたいだ。


きいろいゾウ』はまた読み返すこともあるかもしれないので
どうしてこの小説が、クライマックスを
過去に遡ることによって描こうとしたのかは
またそのときかんがえてみよう。


「ところで、ツマはムコさんの日記を読んでいたのか?」
という謎も、一読したかぎりでは解決されないまま残っている。


ムコさんの日記に細工をした犯人はだれだ? 的な謎解きには
きょうみがないのだけど
日記というのは、文字にされた過去の一部なわけだから
クライマックスの「記憶」の問題とリンクしているのかもしれない。


メモ程度のことになるけれど

  • ツマが日記を書いていることは、一度も誰にも触れられていない。
  • ムコさんの小説の中身も、なにも触れられていない。
  • ツマはムコさんの小説は読んでない。
  • ツマは、ムコさんが書斎で書いているものを、小説か日記か認識していない

というあたりから
ツマの日記とおもわれているパートは、ムコさんがフィクショナルに書いた文章だった
という含みもありそう。

……などと、
いろいろ考えをこねて遊んでみたい気にさせるほどのふくよかさを
きいろいゾウ』は持っていた、ということで。


短く感想を書くつもりが、ずいぶんダラダラとながくなってしまったけれど
気にしない。


そして、『空中スキップ』も『迷惑な進化』も『石ころの話』も触れずに
きょうの文章がおわるけれど、それも気にしない。


気にしない、気にしない。