『白鯨』を読む10 加藤典洋の引用

加藤典洋の『僕が批評家になったわけ』を読んだ。


批評とはなんだろうか、という問いに対する加藤さんの応えは、以下のようなものだ。

批評とは、ものを考えることがことばになったものだ。


あるいは

頭上には世界がある。
地上には世間がある。
批評はすぐれた思考であろうとこの世間の風とせめぎあい、
その中間に、噴水の上のゴムまりのように浮かんでいる。


世界と世間のあいだで(あやうい)バランスをとっているもの。
それが批評だと。


最初の引用は、本の冒頭ちかく
そして次の引用文は、本のほとんど結論部ででてくるので
ここにいたるまでに
「公衆」とか「無名性」、「世界」と「世間」といった各論が
内田樹のデビューの仕方とか、ドリアン助川の人生相談の解答の方法とか
徒然草の成立過程なんかを引きながら、
よくもわるくも緊張感のない、リラックスした語り口で説明されていく。




これから先は
本の内容からはずれていってしまうのだけど、
『僕が批評家になったわけ』の面白さを支えているのは、
加藤さんの引用のうまさなのだとおもった。


なにかの本を説明するのに、一文を引用する。
クジを引くみたいに、スッと
わずかな文を引き抜く。
その引いた箇所の、的確さが見事なのだ。


たとえば、養老孟司の『唯脳論』からの引用。

むしろいちばん不思議なのは、われわれが、
視覚によるものも聴覚によるものもの一緒くたにして
「言語」と称していることの方である。


そして

自然界で、音と光が「連合」することはあまりない。
生物が生きている自然の環境で、音と光は必然的に結びつくものではない。
両者が異質であったからこそ、光と音に対する受容器、
すなわち目と耳は
独自に発生し、進化した。


なるほどねえー、と膝を打ちながら引用箇所を読んだのだけど
じつはさいきん、
偶然ぼくも『唯脳論』を読んだばかりなのだ。
でも、こんなこと書いてあったっけ? 
まったく記憶にない。どういう脳の構造になっているのやら。


『僕が批評家になったわけ』には、こんなような
オリジナルのテキストをすごく魅力的にみせてくれる引用が
ちりばめられていた。
そのなかには加藤さんがしばしば引く
「君と世界の戦いでは、世界に支援せよ」
というカフカのコトバについての考察もふくまれていて、
加藤さんの引用巧者ぶりを、ぞんぶんに胆のうできた。


こういう前振りをしたあとで、『僕が批評家〜』のなかの
もっとも印象にのこった一文を引くのは気がひけるのだけど
ぼくが読んで、こころに仕舞っておきたいなとおもう一文をさいごに。



一つの考えを記すこと、
しかしよく観察すると、それは、
感情のようなものに伴われている。
ことばを書きつけるたび、
自分のなかにさまざまなものが息絶え、蘇り、
またささやかなものが芽吹いては
たんぽぽの種子のようにどこともしれず消えてゆく。
そういう経験が
書く者の内部に積み重なってゆく。
そのような経験が重なると、ある考えを記すことは、
少しずつ、記すことによって自分に耳をすますことに似てくる。
こころがこころをふりかえる。
深淵が深淵を覗き込む。