『白鯨』を読む11 私は要約が下手だという人

先週末、仕事で京都に出張することになって、
行き帰りの新幹線のなかで、
まとまった読書の時間がつくれたのだから
ここぞと『白鯨』を読めばいいものの
ぼくがカバンに入れていったのは保坂和志の『小説の誕生』だった。



これは「新潮」で延々つづいている、
小説的な思考についての(「小説についての思考」とは、たぶん少しちがう)連載の
第二期をまとめたもので、
こないだ、第三期をまとめた続編の『小説 世界の奏でる音楽』が出たばかりだ。


ゴールに向かって組み立てられていない、
あてどなさに満ちた文章が、
かろうじて「新潮」の連載時に区切られるチャプター毎の
便宜的な完結性を担保にすることによって
(とても偉そうな言い方にも聞こえるけれど、みくだした意味ではなく)
読むに耐える強度をもった文章になる。


最初に出版された『小説の自由』を読んだときには
「もうこの先はつき合わなくていいな」とおもったものだけど
こうして手にとってしまった。
そして、溺れるように読んでいる。



ぼくが保坂さんのこのシリーズを読むのは、
興味深い、とか、勉強になるからではなくて(ならないわけではないけど)
なによりも、気持ちいいからだ。
ほかの本ではあまり体験できない、快感がある。


ぼく自身も、小説についてあれこれ考えるのが好きで
保坂さんのほとんどのコトバに頷きながら読める。
というのは、前提としてあるのだけど
読みながら、グラスの底から泡が滾々とでてくるみたいに、
本の内容とは離れたいろんな考えを巡らせられることが、気持ちいい。


いってみれば、ぼんやり考え事をしながら読んでいるのだけど
保坂さんのこのシリーズには、そういう思いつきを誘発する芽のようなものが
たくさんばらまかれている。
そして、保坂さんの思考を追いかけるのと併走するみたいに、
誘い出されたじぶんの思念をもてあそびながら、頁をめくっていける。
そんなゆとりというか、懐の広さというかがある。


そんな思惟の芽といえる数々のコトバのひとつに、
たとえば引用されるゴダールのコトバがある。


つくられている映画の四分の三は、
フレームとカメラの窓(ファインダー)を混同している始末です。
フレームというのは実際は、
カットをどこで始め、どこで終わらせるのかというところにあるのです。
フレームというのは、時間のなかにあるのです。


保坂さんがする引用は、たいてい、常軌を逸して長い。
上のゴダールのコトバも、こんなものではすまなくて、
この10倍くらいのボリュームがある引用が、注釈も解説もなしにつづき、
そして補足なしにその章が終わったりする。
言及する小説の引用も、千文字くらいのブロックでなされる。


その引用のやたらな長さ=効率の悪さに、頓着しないで
うんと遠まわりしていくことが、スナワチ
小説的思考なのだと、保坂さんは繰り返し読者を諭すのだけど、
かとおもえば
じぶんは要約が下手だということをところどころで吐露していて
国語のテストでお決まりの「以下の分を要約せよ」というのを解いていたら
もとの文章より長くなったという話なんかには、おもわず吹きだしてしまう。
こういう実直さが、あるいは本に流れるゆとりとして感じられるのかもしれない。



上に孫引きしたゴダールのコトバを読みながら、
保坂さんの書く内容とは別に、ぼくがおもったのは、
フレーミングこそ、ストーリーの原形なのだろう、ということだ。


保坂さんは、一貫して
小説がいかに物語から自由になれるかを考えているけれど
たぶんぼくの考えている物語と、保坂さんのいう物語というのは
違う定義の仕方が必要だ。


保坂さんは言う。

考えてみればガルシア=マルケス百年の孤独』も
全体をまとめているのは“筋”ではなくて、“場”だ。
ドン・キホーテ』もまとめているのは“筋”ではない。
この場合は“場”ではなくて、ドン・キホーテという人物ということになるだろうか。
カフカの『城』では、“城への関心”だろう。


“筋”は、「時間を追って話が進んでいくこと」
と、そのあとで言い換えられていて、
ストーリー以外のものに導かれて、小説は書かれうると
保坂さんはここで言っているのだけど
小説をまとめるものは、ある場合は、“場”であったり、べつのときは“人物”で、
ときには“場への関心”だったりする。でも、その諸々は
要するに“フレーミング”と、大きく言い換えていいのではないだろうか。


無限定にひろがっている世界の
その一部を、フレームによって切り取る。
一般的な意味としての視覚として空間を切り取るばかりでなく、
ゴダールが言うように、フレーミングとは、時間を切り取ることをも、意味している。
いや、これだけでは言い足りてないので、もう少しコトバを探そう。
フレーミングとは、ある眼差しで、世界を限定的に見ることだとしよう。


切り取られた途端に、その小さな世界は蓋然性を主張する
(なぜだろう? 部分だったものは、フレーミングされた瞬間に、全体であることを目指しはじめる)。
切り取られた世界それ自体の要請にしたがって、フレームのなかを、整理していくと
情報が編集されるなかで、時間軸に沿った道筋がみえたりして、ある場合には、ストーリーと呼ばれるものが生成される。


だから、小説は、ストーリーが先行してあるのではなく
世界のどこをどうフレームに切り取るかということが、ある。
小説を書くことは、フレーミングすることと、かぎりなく近い行為だ。


黒沢清の撮影台本を、役者のだれか(役所広司だったか)が覗いたとき
その台本には、余白にたくさん落書きがあって、
よく見れば枠線でフレームが書かれていて、
そのフレームのなかで人間をふくめたあらゆるオブジェがどう動くかという動線が、
まるで幾何学紋様のようなパターンとして書かれているのを見つけてギョッとした、
というエピソードが忘れられなくて、ずっと引っかかっていたのだけど、
映画とかなにか、という問いに対して
「それはフレーミングです」と解答するのは、
即物的で味気ないものではなく、かぎりなく正しいという気がする
黒沢清がそういう答え方をしたというわけではないのだけれど)。


おなじように、小説とはなんだろうという問いにも、
「それは世界をフレーミングする作業だ」という答え方が、
とりあえずいま、ぼくのなかではしっくりしている。


諧謔のつもりで言うのではないけれど、そもそも『小説の誕生』で、
保坂さんの文章をあやういところでなりたたせ、
文章の強度を保障しているものも
「小説について、私が考えていること」というフレームなのだし、
『さようなら、ギャングたち』について
高橋源一郎
「愛と詩についてだけ、書こうと思った」とどこかで言っていたけれど
これも、「愛と詩で世界をフレーミングした」と言い換えられる。
それらは、ストーリーと呼ばれるものと等価に、
書かれるものを規定する。
というより、ストーリーは、フレーミングのあとに、結果的に立ち現れるものだという感触がある。
思いつきの範囲では、いまぼくのなかだけではとても腑に落ちているのだけど
もしかしたらぼくは、フレーミングというコトバを大きい意味にとりすぎていて
結果的にはなにも言えてない状態になっているかもしれない。


ともあれ、
『小説の誕生』は、まだ半分くらいまでしか読んでなくて
このさき保坂さんが
どんなコトバで小説を説明していくのか、楽しみなのだけれど
そのいちいちをぼくは、「フレーム」というタームで言い換えて検証しながら
読んでいくのだとおもう。