『白鯨』を読む03 トーマス・M・ディッシュの言葉

身辺整理のために、図書館に何冊かの本を返しに行く。


その足で本屋へ。
集英社から文庫本で、
池澤夏樹の『パレオマニア』が出ているのを知る。
ちょうど欲しかった本だ。


奥泉光の『モーダルな事象』も文春文庫になっていた
(ただし単行本のときにあった巻末インタビューはないみたいだ)。
ひさしぶりに、あのメタメタな世界に溺れたいっ。


五十嵐大介の『海獣の子供』の3巻も。小学館から。
つい先日、軽い五十嵐禁断症状になって、
『魔女』の1巻を読みなおしていたばかり。
なんとタイミングのいい。


でも、レジには向かわず
ふぅーん、と横目で見つつ、職場にもどる。
欲しい、でも買わない。
『白鯨』を読み切るまでは!


この作戦はいいかもしれない。
さっき書店で見た本たちの残像が、ボディブローのように効いてくる。
はやく欲しいから、はやく『白鯨』を読もうという気になる。


もしこれで『白鯨』をずっと読みおえられなければ
それはそれで、
ぼくの患う病(読まないのに本買いすぎ)にたいする治療ともなるわけで、
悪くないような気がする。


だからこの日記は、いまのところ
『白鯨』の内容を咀嚼しようという類の読書日記には
なっていないのだけれど、
ぼくがどのように、本を買う性癖を克服していったかという
ある種の闘病記にはなるだろう。


しかし、だ。



こないだ買った『S-Fマガジン』で知ったのだけれど
トーマス・M・ディッシュが亡くなっていた。
自殺だという。


憶測でしかないのは当然として、
奥さんが少し前に亡くなっていたことと、アパートからの立ち退きが
こたえていたのだろう、とのこと。
立ち退き?


亡くなる10年前に書いたディッシュの文章が掲載されていた。

 市場の原理に従って製品を生産することができない作家は、
有力な編集者と特別なコネがないかぎり、本を出せなくなる。
つまり、すでに知名度を確立した作家しか、
書きたい小説を書いて出版することはできないし、
そういう作家さえ安心してはいられない。
  (中略)  
作家は年をとってゆく。
読者が概して年をとらないジャンルにあっては、
老化はつねに不利に働く。


さらに辛口とも見える具体例がつづく。

もちろん、すべての挫折を市場のせいにはできない。
作家は、スタージョンのように燃えつきることもあれば、
ラファティのように勢いを失ってしまうことも、
ベスターのように酒に溺れて死ぬこともある。
クラークやアシモフやハーバートのように、
商業的成功を老後にまで引き延ばすことに成功した
作家たちでさえ、それが可能になったのは
若かりし頃の勢いの賜物だ。
名声がじゅうぶんに大きかったおかげで、
初期の成功をリサイクルし、時代を生き延びる製品を
生産することができたわけだ。しかしそれは、
死後出版の本が売れるのと似たようなもので、
時代精神を求めてSFを読む読者からは
めったに重視されない。


ディッシュがいうように、
もちろん、すべての挫折を市場のせいにはできない。


それでも、ディッシュの最晩年が、
経済的な苦境のなかにあったかもしれない、
と考えるのはショッキングなことだ。
あのトーマス・M・ディッシュが?
そんな世界は、何かがまちがっている。


ぼくは小説を読むことが正しいことだとは、考えていない。
小説が常に人を励まし、慰めるとはかぎらない。


でも、小説を買うことは、かなり正しい行為だと考えている。
小説というものが、これからもあるために。
あたらしい、すばらしい物語が生まれる可能性のために、
小説家という職種を存続させることは、必要なことだ。


そんなことを考えていると、
いまからでも書店にかけもどりたくなってくる。

はやく『白鯨』を読もう。

『白鯨』を読む02 カバー装着

いっそのこと、宣言しておこう。


ぼくは、『白鯨』を読了するまで、あたらしい本を、買わない



……と、昨日書き込もうとおもっていたのだけど
そのまえに近くの本屋にいって
S-Fマガジン』のジーン・ウルフ新しい太陽の書」特集号(リンク)と
東浩紀大塚英志の7年がけの対談集『リアルのゆくえ』(ほんと大塚さんは話題づくりが上手いなあ……、印刷二日前に自分のあとがき取りやめなんて)の二冊を、駆け込みセーフ的に買い求めた。
きょうはブックオフ酒見賢一がいつのまにか出していた新書『中国雑話 中国的思想』を買った。

ふぅ。


というわけで、いよいよ宣言。


ぼくは、『白鯨』を読了するまで、あたらしい本を、買わない


で、『白鯨』のほうは、とりあえずカバーを装着したところまでで、
まだ読んでなくて
きのうはレイ・ブラッドベリの『瞬きよりも速く』を読んだりしていた。


いま読み途中のものを放り投げるのは、ちょっと……。


などと弱気なことをいっていると、結局これまでどおり、読み始めることもできないわけで


ふんぎりつけます(と、また宣言してしまう)。


でも、シャロン・モアレムの『迷惑な進化――病気の遺伝子はどこから来たのか』は
とても面白くて、やめられそうにない。
これは小説じゃないからいいよね?(と、誰に確認をとっているのか)


こんなふうに『白鯨』を読むに際して
「まず身体をきれいにしてから……」という心境になるのは
たぶんそれなりの理由がある。


けど、それはまた明日書くことに。

『白鯨』を読む01 ためつすがめつ

「うちの本棚が燃えてなくなったらすっきりするのに」
という夢想がきのうも頭をかすめた。


計算機を叩かなくてもわかる。
ぼくはじぶんが買い集めたこれらの本を、のこりの一生かけても読み切ることができない。


いままでだって、何度も気づいていて、
でもそのたびに見ないふりをしてきたけれど
きのう買った文庫本を
マーク・トゥエインの自伝と、チャールズ・フレイジャーの『コールド・マウンテン』と、ピーター・ストラウブの『ミスターX』)
ボンレスハムみたいにミチミチになった本棚の隙間にねじこむときに
あらためておもった。これはムリだと。もうダメなんだと。


で、決断することにした。この問題をこれ以上放置しない。



読む速度に追いついていないから溜まるわけで

  • 読む速度を上げる
  • ストックする速度を落とす


あるいは在庫の観点からみれば

  • 読んだ本は処分する
  • 読んでないけれど処分する本を探す


このあたりが現実的なラインだけれど、どれもいやだ。


では現実逃避ライン。

  • 「本というのは、読まなくてもいいもんなんだ、手もとに置いておくだけで滋養のあるものなんだ」と考えることにする


これは雑誌『ユリイカ』だかの、同様の問題をトピックにした座談会でだれかがコメントしてた。そうそうと、その座談会のメンバーたちはうなずきまくり。
だけど、ざんねんだけど、ぼくはその妄想に参加することはできない。

  • 1冊読んだだけで、100冊読んだ分くらい肩の荷が下りる本を読む


これしかないんじゃないの?
この妄想なら、受け入れられる。なんでだろう。


少なくとも、小説には比重がある。体験的にそうおもえる。
長編か、難解か、古典か。あるいはその組み合わせがあるものは
ほかの小説よりも重い。
ぼくの頭では内容を理解できないかもしれないけれど、文章のドライブ感にのっかるだけで高揚感があったりする。全身の細胞がぶるぶる震えるような。


さっそく本棚のなかから、候補を探す。
リチャード・パワーズか?
スティーブン・キングの『スタンド』? 『ダークタワー』?
ロジェ・マルタン・デュ・ガール『チボー家の人々』?
ジョイス『ダブリンの市民』?


こうして書き連ねるだけで、あまりに読んでいなさすぎなことを思い知らされて目眩がする。
そう、ぼくは小説というオブジェが好きなだけで
けっして本読みではないのだ。これもうすうす気づいてはいたことだけれど。


けっきょく、『白鯨』を選んだのは、
柴田元幸の解説(link)を読んで、モチベーションが沸き起こったから。そんな気がしたから。


めげそうになるたびに、柴田さんのこのレコメンドにもどろう。


では、がんばります。たとえ実質的に本棚の整理にならないとしても……。