『白鯨』を読む10 加藤典洋の引用

加藤典洋の『僕が批評家になったわけ』を読んだ。


批評とはなんだろうか、という問いに対する加藤さんの応えは、以下のようなものだ。

批評とは、ものを考えることがことばになったものだ。


あるいは

頭上には世界がある。
地上には世間がある。
批評はすぐれた思考であろうとこの世間の風とせめぎあい、
その中間に、噴水の上のゴムまりのように浮かんでいる。


世界と世間のあいだで(あやうい)バランスをとっているもの。
それが批評だと。


最初の引用は、本の冒頭ちかく
そして次の引用文は、本のほとんど結論部ででてくるので
ここにいたるまでに
「公衆」とか「無名性」、「世界」と「世間」といった各論が
内田樹のデビューの仕方とか、ドリアン助川の人生相談の解答の方法とか
徒然草の成立過程なんかを引きながら、
よくもわるくも緊張感のない、リラックスした語り口で説明されていく。




これから先は
本の内容からはずれていってしまうのだけど、
『僕が批評家になったわけ』の面白さを支えているのは、
加藤さんの引用のうまさなのだとおもった。


なにかの本を説明するのに、一文を引用する。
クジを引くみたいに、スッと
わずかな文を引き抜く。
その引いた箇所の、的確さが見事なのだ。


たとえば、養老孟司の『唯脳論』からの引用。

むしろいちばん不思議なのは、われわれが、
視覚によるものも聴覚によるものもの一緒くたにして
「言語」と称していることの方である。


そして

自然界で、音と光が「連合」することはあまりない。
生物が生きている自然の環境で、音と光は必然的に結びつくものではない。
両者が異質であったからこそ、光と音に対する受容器、
すなわち目と耳は
独自に発生し、進化した。


なるほどねえー、と膝を打ちながら引用箇所を読んだのだけど
じつはさいきん、
偶然ぼくも『唯脳論』を読んだばかりなのだ。
でも、こんなこと書いてあったっけ? 
まったく記憶にない。どういう脳の構造になっているのやら。


『僕が批評家になったわけ』には、こんなような
オリジナルのテキストをすごく魅力的にみせてくれる引用が
ちりばめられていた。
そのなかには加藤さんがしばしば引く
「君と世界の戦いでは、世界に支援せよ」
というカフカのコトバについての考察もふくまれていて、
加藤さんの引用巧者ぶりを、ぞんぶんに胆のうできた。


こういう前振りをしたあとで、『僕が批評家〜』のなかの
もっとも印象にのこった一文を引くのは気がひけるのだけど
ぼくが読んで、こころに仕舞っておきたいなとおもう一文をさいごに。



一つの考えを記すこと、
しかしよく観察すると、それは、
感情のようなものに伴われている。
ことばを書きつけるたび、
自分のなかにさまざまなものが息絶え、蘇り、
またささやかなものが芽吹いては
たんぽぽの種子のようにどこともしれず消えてゆく。
そういう経験が
書く者の内部に積み重なってゆく。
そのような経験が重なると、ある考えを記すことは、
少しずつ、記すことによって自分に耳をすますことに似てくる。
こころがこころをふりかえる。
深淵が深淵を覗き込む。

『白鯨』を読む09 誕生月の小説

ある朝、ママから絶縁状が届く。
淡いピンク色の便箋にブルーの文字で、「ママです」と書き出されていた。
封筒には、差出人の名前も住所もなかったけれど、
このニョッキみたいにまるまるとした字はママに間違いなかった。
縁を切られるおぼえはなかった。だけど、
ママに問い合わせるのも面倒だったから放っておいた。
出張から帰ったばかりで疲れていたというのもある。
それに、ママの連絡先を知らなかったということも。
そうしたら夕方に、当のママから電話がかかってきた。
「あの手紙、読んでくれた?」
僕はソファにうずもれている。サイドテーブルには、
朝とどいたママからのちいさな封筒、
つい五分前に冷蔵庫から取り出した瓶ビールとグラス、
それから三ヶ月のあいだ読みすすめないでいる文庫本があった。
それは西暦二〇〇〇年の夏の出来事だった。もうずいぶん昔の話におもえるけれど。


ぼくは小説家ではないのだけど
書いてみたくなったので、書いてみた。上はその冒頭。


あれやこれを小説として書きたいという具体的な体験とかイメージはなかったので
小説を募集している媒体のなかで、
ぼく自身、いまいちばん楽しんでいる雑誌に応募することにして
その制約のなかで書こうとおもった。


枚数の指定があれば、そのなかでまとめるし、
もしジャンルとかテーマとかキーワードが設定されるなら、
言われるままに寄り添ってみようとおもった。
三代続くご用聞きの心意気で。
なにより、現実的な締め切りがないことには
たぶん書ききれないという自分のだらしなさには自信があったので。


柴田元幸さんが責任編集になっている『モンキービジネス』(リンク)に出したいぞ、
というのはすぐに決まった。


手に取るだけで、こんなにワクワクする雑誌ってない。
アートワークに対する意識がしっかりしているし
(しばしば見かける柴田さんの似顔絵が排されているあたりの判断も支持する)
「野球号」「眠り号」といった特集タイトルの外しかたも素敵だし
(しかも次号は「サリンジャー号」だし)
古典、新作おりまぜたテキストの多彩さに目がくらむ
(ていうか岸本佐知子が連載してるというだけでもう完璧でしょう)。


募集のじょうけんは

  • 400字詰め換算で30枚以内
  • 至近の応募資格は、9月末までが誕生日の人。締め切りも9月30日。

という2点だけ。


ということで、30枚以内で、9月末までに書けるものを書くことになった。



でき上がった代物は、うんざりするような仕上がりで
読み返すのもいやだし、はやく忘れたいのだけど
それでも下読みの人の迷惑顧みず、締め切り日に送った。
すみません。
ともあれ、書くうちに、発見もあった。


その発見というのは、じぶんのなかの「正しい小説」についてだ。
小説というのは、すくなくともぼくの書いた小説は
さいしょからさいごまで、でたらめが書いてある。


プロットは、
失踪した母親を、テディベアのぬいぐるみと一緒にさがしてまわる男のはなし。


幕末の薩摩の出来事を書く、というのでもなし、
未来のハッカーの世界を書くでもなし、
物語は、はんぶん夢うつつのなかで進行して、語り部のいうことにフェアネスも期待できない。
だから、書きつけられるコトバは、どんなコトバもあり得るとまでは言わないけれど、
キャッチャーミットは大きく、かなり許容量のひろいなかで
文章をつないでいけるはずだった。


にもかかわらず
書くうちに、
「これはちがっているな」という感覚がある。
そのことが、意外だった。


「これはつまらないな」というのであれば、まだわかる(し、終始おもっていた)。
だけど、
「この描写はまちがっていて、こうするべきだ」
という感覚が、書くうちに起きる。
正解は本来ないはずなのに、そうおもう。強く確信する。
そして書き直して、すこし納得して、先にすすむ。


ということは、ぼくのなかには正しい小説の姿
設定されているのだろう。
内容に対して好みがあるだけでは飽きたらず、
もっと傲慢な意志がねむっていた。
そして、そのあるべき姿に近づけないもどしさ……。なんど、ふて寝したことか。



もう一つの発見は
小説を書くことに集中しているあいだ
ぼくが無能になることだ。
宅急便を出すときに、緩衝材だけ入れて送ったり、
しかも伝票に書く住所をまちがえたり、
雨の日に駅のホームに傘をわすれたり
銀行のATMでお金を引き出しておきながら、カードと明細だけ受け取って帰ろうとしたり。
こんな日々がつづくと、日常生活に支障をきたすだろう。
交通事故とかにも余裕で遭いそうな気がする。



ところで、すぐにもう一本書こうとおもっている。
こんどの締め切りは10月20日


たぶん、転職のほうがうまくいかないことの
現実逃避なのだろう。


そういえば、学生のころにいっとき、小説を書いていたけれど
あれも受験から逃避するためのものだったんだな。いまさら気づいた。


『白鯨』は、
「『鯨』という語を含む名文抄」のパートを読み終えたところまで。

『白鯨』を読む08 テストの答え合わせ

まさに鯨でげす。
                    『ハムレット


冒頭の
「鯨という語を含む名文抄」をパラパラと読んでいる。
まだ物語ははじまっていない。
いや、この小説に物語を期待するのは間違いではないかという予感がする。
ていうか、期待なり予感なりを言い出すのすら、まだ早いだろう、じぶん。


ともかく、頁をめくりはじめた。
そして、ここにきて、
気持ちをきりかえてバリバリ『白鯨』を読みすすめなければと
気を引き締められるできごとが、たてつづけに起こった。



ひとつは、映画化のニュース(リンク)。


監督は『ウォンテッド』の人らしい。
この映画は見ていないけれど、アンジョリーナ・ジョリーが
流麗なカメラワークのなか、唇をとがらせて弾丸を解き放つ映像は、テレビスポットで何度も目にしている。


バラエティ・ジャパンの記事によると、

メイヴィルの原作を尊重しながらも、よりグラフィック・ノベル的に話の構成を変えた


さらに

(脚本家の)クーパーは、
「私たちの『白鯨』は、おじいさんたちの世代が読んでいたものとは違います。
この不朽の名作を取り上げ、物語の核となるアクションと冒険の復しゅう劇を、
最新のビジュアル・エフェクトを使って描くものなのです」
と、今回の新バージョンの趣旨を説明する。

小説『白鯨』における鯨は、
可視化しえないものの象徴としてあるのかと思っていたのだけれど
(読んでないくせに、そういう予感がするのだ)
それをバッチリ映像にして見せますよ、という今回の映画化は
いかにもビッグバジェット映画らしい無神経さがかえって小気味いい。
じぶんが観にいくかはわからないけど、こういう不敵な試みはどんどんやってください。


『白鯨』に関係ないことだけど、映画の話題ついでにすこし。


ぼくがいま前売り券をもっている映画は
『アイアンマン』だ。
(観たい映画はべつに二つあるんだけど、また長くなるので省略)
『アイアンマン』については、ぼくのアイドル山崎まどかさんも褒めていて(リンク)、いまから楽しみなのだけど、
祖筋や解説をよんでみても、どうしてこの話が面白くなるのか
さっぱりわからない。

企業戦士からヒーローへと転換する派手やかなパーソナリティの主人公を、まったく破綻なく見せる。


と読んでも、はたしてボンクラなぼくが企業人に感情移入できるか不安になるし

ジェットスーツで空を飛ぶ爽快感が味わえて、

とあるのを読んでも、トレーラーの映像はまるで『ロケッティア』の悪夢を蘇らせるふうだし。


なんというか、『アイアンマン』に対して、
じぶんの想像力が追いついていないのが、もどかしい。
もしぼくが、映画業界の片隅でモップ掛けをする野心だけは満々の監督志望青年だったとして
ある日、ハゲでデブで毛むくじゃらの映画プロデューサーに
「ちみ、『アイアンマン』監督しない?」と、
かりに依頼されたとしても
「アイアンマンっていわれてもなぁー」と、途方にくれてしまうだろう。


だからぼくは、赤点をとってしまったテストの
答え合わせを授業で聞くような気持ちで、
映画館に足をはこぶことになりそうだ。



つぎは、試験の問題を解くまえに、模範解答を読んだみたいなできごと。


ぼくが毎日訪問してまわるサイトのひとつに
「空中キャンプ」というところがあって、
ふだんは映画の感想を中心にシンクロ率を誘発するテキストが書かれているのだけど
そこに先日、
「『白鯨』の思い出」
という記事(リンク)がアップされた。


なんとタイムリーなんだろう。
ぼくのために書いてくれたとしか思えない。ありがとう。
いや、じっさいのとこ、どうして空中キャンプさんが『白鯨』について書こうとしたのかわからないけれど
ともかく、チャーミングな文章。

その、さわりだけ。

この小説にでてくるエイハブ船長という登場人物は、
『白鯨』を読んだことのない人でも名前を聞いたことがあるくらいに有名であって、
それはたとえば、ホールデンとか、トラヴィスとか、
そういったたぐいの「架空の有名人」のひとりであった。
そして十九歳のわたしは、架空の有名人たちとたくさん知り合いになりたいとおもっていたのだった。


この出だし……。たまらん。ごはんおかわり。
こないだ「本の雑誌」のサイトで穂村 弘さんのインタビューが掲載されていたけれど(リンク
そのなかで説明される穂村さんの切迫感にも近いものを感じる。
すこしながいけれど
そのインタビューからも引こう。どうせコピペなんだし。

思春期に入ってから、
何か決定的なことが書いてある、そういう本があるんじゃないかと思うようになって。
その決定的なことを理解できないと、自分は生きていけないという風に感覚が変わったんです。
親に本を買い与えられていた頃は普通に幸福な子供でしたが、
中学に入るくらいから、自分はこのままでは生きていけないという感じになったんです。
じゃあ、どうなれば生きていけるのかというと、
その答えは親や先生や友達との関係の中では得られないと思い込んでいた。
それで決定的なことが書かれてある本を見つけだして、
それをつかまない限り、自分は駄目だという、特殊なテンションがありました。
娯楽というよりも、読んでは「これも違う、次!」というような。
自分だけの決定的なバイブルを求める感覚で読んでいたんです。


正直、ぼくがこれから『白鯨』を読んでも
「空中キャンプ」にある文章いじょうの感想文はでてこないだろう。
だから
この「『白鯨』を読む日々」はその活動の意義を終え……といって、
はてな市民にもなれないままブログを閉鎖することもかんがえた。


だけど、『白鯨』を読むことで
「架空の有名人」と仲良くなれるなら、
あるいはその本が決定的なバイブルになるかもしれないなら
やっぱり読んでみたい。


なんて、気負いばかりが先行している日々。

『白鯨』を読む07 長距離走者たちの孤独

きいろいゾウ』を読み終わる。
ジュディ・パドリッツの『空中スキップ』も。
あと、シャロン・モアレムの『迷惑な進化』も、
それから、ディトリックの『石ころの話』もさいごの頁まで到達した。


すこし前におなじタイミングで読み始めた本が
足並みをそろえてゴールインしたという感じ。
遅れてスタートした『きいろいゾウ』の追い上げがすごかった。
そして、『白鯨』は、スタート地点からまだ一歩をすすんでいない。
地面にすわりこんで、芝生をむしったりしている。



読み終えた本の感想を少しずつ。
(ネタバレしてます)


きいろいゾウ』は、強い結びつきをかんじている夫婦が
ばらばらになるあたりから、ストーリーが緊迫感を増してくるのだけど
コトバそれ自体の膂力も、後半は飛躍的につよくなっていく。


物語の中盤で、ムコさんが本のしおりに見つける短い文章が
そのごの展開のなかで繰り返されるうちに、
ぼくの気持ちのなかでどんどん膨らんでいく。

わたしは眠ります。
それがそこにあることを、知っているから。
わたしは安心して眠ります。
それがそこにあることを、知っていたから


コトバが、物語の力を借りて、成長しているという感覚。
庭の草木がツマに呼びかけるシーンもいい。
アレチさんの戦時中の記憶がツマによって扉を開けられ、イメージが
噴き出してくるシーンも
コトバが荒々しく炸裂している。
もしかしたら大げさな表現になるかもしれないけれど
なにかコトバのもつ禍々しい力が、
きいろいゾウ』の後半には、ときどき顔をのぞかせるようになっている気がする。


こんなふうに中盤までの、「ふわふわした日常」というテイストを脱ぎ捨てることが
あるいみ爽快、といえば爽快なんだけど
中盤のクライマックスとなる漫才発表会のシークエンスまでの
抑制の利いた、複雑な話の回し方のまま、穏やかにフィニッシュしていたら、
どうなっただろうという夢想もしてしまう。
どこまで頁をめくっていっても
さしたる変化のない家族アルバムのような穏やかな起伏。
ツマとムコさんは、離ればなれにならないで
物語のさいごまで、仲むつまじくすごしたとしたら。たとえば
リディア・デイヴィスの短編「サン・マルタン」の、
けっして離れないカップルの物語みたいに。



後半のストーリーについていえば
悲壮感を増していくのは、抵抗ないのだけど
「そこでアレチさんがなぜ?」という疑問は、なくもなくて。


ツマとムコさんの、ふたりの物語として盛り上がっているところに
おとなりさんのアレチさんが混じらなくてもよかった気がする。
しかも過去のアレチさん。
戦時中のアレチさんの記憶が、ツマによって召還される。
一方のムコさんは、
おなじころ、いわゆる「前カノ」に会いにいくことで
近過去のじぶんに直面しているわけで
ふたりして過去への哀しい旅を繰り広げるという展開に、
小説世界にずんずん引き込まれながらも、必然性がよくみえなかった。


キャラクターのバックストーリーを
(たとえそれが魅力的なストーリーであっても)
いまここで進行中の物語のなかに組み込むのは、
じつは小説の技術としては、かなり難しいことで、
村上春樹が、いつもけっこうやすやすとやりとげてしまうので
これまであまり気にしてこなかった問題だけど
あらためて考えると、あまり成功例が思い浮かばない。


悲惨な失敗例として出すのは気がひけるけれど
さいきん悪い意味で印象にのこったのが
伊井直行の『青猫家族輾転録』。
あの小説での長い回想は、なくても成立するし、
むしろない方が完成度が上がるバックストーリーだった。
寓話的すぎで、それまでのはなしのリアリティの度合いを混乱させていた。
でも伊井がいちばん書きたかったのはそのバックストーリー
(と、冒頭に表明される、じぶんの文体に関する逡巡)なんだろうなという気はして
ようするに、マッチングの問題じゃないかという気もするのだけど。


逆に、これはうまいぜと思い出す例は
ジョン・D・マクドナルドの『ケープ・フィアー』。
主役夫婦の若かりし頃のなれそめが描かれるのだれど
夫婦の過去をジョン・Dがしつこくねちっこく描けばかくほど、
その後につづく復讐の物語がいよいよ怖くなる。


たぶん、小説は、
過去へ過去へと向かっていく意志を内在している表現なのだろうとおもう。
基本的に語り部は、
すでにおこった過去についてしか書くことができない。
書き手は、複数の過去をレイヤー的に重ねることで
小説内の世界を豊かにできると期待する。
それがどういうときにうまくいって、
どういうときに失敗するのか紐解くには
ぼくがおぼえているサンプルは少なすぎるし、ぼくの頭もシンプルすぎる。


でもって、『きいろいゾウ』でのアレチさんの過去のあつかいが
失敗しているか成功しているかは
とりあえずいまは判断できないし、したくもない。
西加奈子という優れた小説家に出会えたしあわせを
いまはただ、しみじみ感じていたい。
ぼくは素朴な読者以上のものに、なりたくないみたいだ。


きいろいゾウ』はまた読み返すこともあるかもしれないので
どうしてこの小説が、クライマックスを
過去に遡ることによって描こうとしたのかは
またそのときかんがえてみよう。


「ところで、ツマはムコさんの日記を読んでいたのか?」
という謎も、一読したかぎりでは解決されないまま残っている。


ムコさんの日記に細工をした犯人はだれだ? 的な謎解きには
きょうみがないのだけど
日記というのは、文字にされた過去の一部なわけだから
クライマックスの「記憶」の問題とリンクしているのかもしれない。


メモ程度のことになるけれど

  • ツマが日記を書いていることは、一度も誰にも触れられていない。
  • ムコさんの小説の中身も、なにも触れられていない。
  • ツマはムコさんの小説は読んでない。
  • ツマは、ムコさんが書斎で書いているものを、小説か日記か認識していない

というあたりから
ツマの日記とおもわれているパートは、ムコさんがフィクショナルに書いた文章だった
という含みもありそう。

……などと、
いろいろ考えをこねて遊んでみたい気にさせるほどのふくよかさを
きいろいゾウ』は持っていた、ということで。


短く感想を書くつもりが、ずいぶんダラダラとながくなってしまったけれど
気にしない。


そして、『空中スキップ』も『迷惑な進化』も『石ころの話』も触れずに
きょうの文章がおわるけれど、それも気にしない。


気にしない、気にしない。

『白鯨』を読む06 最後の物たちの国で

名前は忘れたが、犬を連れた男性に会う。


西加奈子の『きいろいゾウ』を読みすすめている。


おもしろい、だけでなく
思っていたより油断ならない小説で
(その油断ならなさこそが「おもしろい」わけだけれど)
たとえば文庫本の105頁にある
上のような一文に、どきり、としてしまう。


この小説は、
妻の書く日記と、夫の書く日記とで、交互に構成されている。


あるシークエンスでは、
メガデス
という印象的な名前の犬との出会いについて、ツマが日記に書くのだけど
ムコさんはその直後の日記で
さらりと
「名前は忘れたが」
と書く。


ふたりの視点の違いが、よみどころで
「夫婦でおなじ一日をすごしていても、考えてることはちがうんだねぇ」
と、しみじみ思いながら
結果的に、小説に書かれる田舎の暮らしが
立体的に浮かびあがってくる。
のだけれど
二種の日記が連なる構成には、もっと大きな仕掛けがあるのではないかと
疑いながら読んでしまう。
もしかして……ふたりが交互に書いているのではなくて……。


こういうとき、ぼくの想像する可能性は
すぐに怖いほうにただよっていってしまう。ぼのぼのみたいに。押井守みたいに。
もしかして……ふたりが住んでいるという平和な村すらも……。
ああ、こわい。


でもぼくが考えるような、こわい種明かしは、
頁をめくっていっても現れなくて
ぼくは胸をなでおろしながらも
「と、思わせてとんでもないどんでん返しがっ」
とおののきつつ、読みすすめている。
このあと、小説がどんなふうに着地するのかは、まだ見えない。
なにか秘密を隠しているのかもしれないし
ストンと素直におわるのかもしれない。


こんなふうに、
「書かれていないけれど、そこにあるかもしれないこと」の存在が
ひしひしと迫ってくるような小説は、すきだ。


たくらみを隠すといえば、聞こえは悪いけれど、
カメラでいえば、フレームの外にも何かがある気配。
コトバで切り取られた世界の限定性に、自覚的であること。


もちろん、まったく逆に
コトバの伽藍が、世界の肌理も、思念も、十全に描き出すことができるんだ、
という意識でいる小説家は、たくさんいるし
(もしかすると、これから読む『白鯨』も、その種の小説かもしれない)
実際、コトバが何かを語り尽くせるかもしれないという想定には、
ぼくも魅了される。
だけど、
コトバは世界それ自体の豊かさには及ばない
という前提から出発して
「それでも、何かは書くことはできる」
という希望に向かって進んでいく小説は、
結果的に「すべてを書き尽くす」小説よりも、もっと大きなものを捉えうる可能性を
もっている気がしてならない。



ぼくのツマが『きいろいゾウ』に惹かれたのは
ぼくが惹かれた上の理由とは、ぜんぜん違う理由だろう。


ここで書かれていることは、私たちに似ている。


と、ツマは思ったのだろう。

もっと正確にいえば、
すこし未来のじぶんたちの姿に、重ね合わせているんだとおもう。
ある種の希望とともに。



ぼくたちはいま、東京に住んでいて、
来年、西のほうに行くことになっている。


アテがあるわけではない。
ただある時点で、ともかく西に出発することだけは決めていて
だからぼくはいま、転職先をさがしていて
でも見つからなくて
困ったな
とおもいながら、なんとなく小説を書き始めている。


そこでどうして小説を書くことになるのかを
カンタンに説明するのは難しいのだけど
(だからとりあえず何も説明しないで話をすすめるけれど)
ツマが、ぼくに小説家になってほしい、と期待しているのはわかる。


山のなかで、ツマはツマの仕事をし(それは山のなかでしやすい仕事なのだ)
ぼくは薪を割ったり、食事をつくったりして彼女の仕事を手伝いながら
文章を書いて暮らせたらいいのに、と。
それがツマの夢想だし
ぼくもそれは悪くないぞとおもっているものの
現実的な目標とは、とてもおもえないでいる。



最近は、朝、ツマと台所で
抹茶を飲む機会が多い。


抹茶をすするまえに、お菓子をたべるのだけど
ツマにおしえてもらったいろいろの和菓子のなかで
たねやの栗大福は別格だ。


米の形をつぶしすぎてない白い表皮も、甘すぎない粒あん
姿も味も、抹茶との相性も。
もうなにもかも。
惚れ惚れしてしまう。


西をむいた台所の窓には朝から日がさしていて、まだ寝間着すがたの
ツマを照らす。
ぼくの歯形をかすかに残した栗大福の断面をみつめる。
それから、もう一口。
口のなかで、小豆がゆっくりほどけていく。
ぼくの舌と大福が親密な交感のなかにいるあいだに
ツマがお茶を点ててくれる。
さしだされる信楽の茶碗の奥に、
濃いグリーンがつつましくたゆたっている。


ここには、じぶん史上、至高の日々があると
ぼくはいつもおもう。
きいろいゾウ』の夫婦が、寄り添って幸せのなかにいるコトバを読みながら
つぎの頁をめくるのが怖いのとおなじように
ぼくは次の朝をむかえるのが、すこしこわくなっている。


一瞬、目を閉じたり、うしろを向いて別の物を見ただけで、
たったいま目の前にあった物がもうなくなっているのです。
何ものも続きはしません。
そう、心のなかの思いさえも。
それを探して時間を無駄にしてはいけません。いったんなくなった物は、
もうそれでおしまいなのです。

ともかく、ぼくたちは東京を離れるし、
書き始めた小説を、とりあえず書き終えてみよう。
(それから、『白鯨』も読むし。もちろん)

『白鯨』を読む05 スティル・ライフ

というわけで、ツマのすすめで『きいろいゾウ』も読んでいる。


ツマについて、少し書いておこう。


彼女はこれまでの人生で、本とはほとんど無縁に生きてきた人で
あるときは
「ノンフィクションが好き」
と言いのけたりするのだけれど
ぼくは怖くて
「じゃあ、どんなノンフィクションの作品を読んできたの?
 オススメのノンフィクションライターは??」
などとは聞けない。


またあるときは
「活字のなかの体験よりも、
 じぶんの目や足でほんとうの体験をする方がいい。
 たとえば山に登るとかして」
とツマは言ったりもする。


「たしかに、そうだよね」
とぼくはこたえる。
でもそのときに
「たとえば、星を見るとかして」
と、こころのなかでリフレインが聞こえる。

きみは自分のそばに
世界という立派な木があることを知っている。
それを喜んでいる。
世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。
でも、外に立つ世界とは別に、
きみの中にも、一つの世界がある。


きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる。
きみの意識は二つの世界の境界の上にいる。


大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、
セミ時雨などからなる外の世界と、
きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、
一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。
たとえば、星を見るとかして。


ぼくとツマがしゃべるコトバのはしばしには
不可知なものとしての本が
まるで目に入ったゴミみたいに
ちらちらと顔を出すことがある。


本が気にならなくなるとき、ぼくたちの関係はスムーズで
本がその存在感をつよくすると、ぎくしゃくする。


ぼくは基本的に、人に本をすすめることはしない。
ぼくじしん、だれかに手渡された本を
きちんと読めたことなんてほとんどないし、
本との出会いは、あらゆる種類の押しつけとは無縁であるべきだとおもうから。


でもあるとき、(それはツマなりの譲歩であったのかもしれないのだけど)
「なにか小説を読んでみたい。どれがいい?」
と訊かれたことがあった。



そのときツマに手渡したのは
カズオ・イシグロの『日の名残り』だった。
どれにしようかと悩むことはなかった。

コトバたちが森の奥から集合して、炎をかこんでゆるやかなダンスをつづけ、
ぼくにそっと近づいては、耳元でこころときめく秘密をささやく。
ささやきは次々とぼくの耳をくすぐる。
そしてぼくは、じぶんの足がいつのまにかステップを踏んでいることに気づく。
――『日の名残り』を読むことは、そういう体験をすることに似ている。



ツマは『日の名残り』を読んでくれた。
「よくわからなかった」
と、ツマは口にしなかった。おくゆかしくも。


「じつは『日の名残り』は、よくわからなかった」
という告白をツマから聞いたのは
ずっとあと、彼女が『きいろいゾウ』を読み終えたときだった。

『白鯨』を読む04 きいろいゾウ

お風呂に入ろうと思って服を脱いだら、浴槽に茹で上がった蟹が浮いていた。

ひきつづき身辺整理を進めていて
まだ『白鯨』を読めていない。


きのうはNHKブックスの『ジンメル・つながりの哲学』を読み終えた。
「社会」ってのは、遠くにあるものじゃなくって、
あなたの足下から地続きではじまっているものなんだよ
ということが言いたいのだろうか?
うなずきはするけれど、なにか新しい知見を得たという気分が
まったく起こらない本だった。


まあそれはそれでよくて、
『白鯨』が一歩ちかづいたことが嬉しい。
あとは、あれとこれとそれをフィニッシュしたら、そしたらいよいよ『白鯨』だ。
こころゆくまで深く深く『白鯨』の海にしずみこもう。


と、ここで伏兵があらわれてしまった。


ツマから、
「すぐに読んで欲しい、二、三日で」
と手渡されたのが
西加奈子の『きいろいゾウ』。


この数日、どうしてしまったのだろう?と心配になるくらい
ツマが読みふけっていた本で、
いまも感動のただなかにいるらしい。
この本について語り合いたいので、はやく読むべし、というわけだ。


『白鯨』…………


でも『きいろいゾウ』、冒頭の一文で、かなりつかまれてしまった。
はじめて読む著者だけれど、いいかもしれない。